ありし日のはじめ


by hajimac

カテゴリ:エッセイ( 18 )

生きがい

年金シニアプラン総合研究機構という機関が5年に一度「サラリーマンの生活と生きがいに関する調査」を行っているそうです。

前回の調査では、僕の年代では半数以上の人が「生きがいがない」「わからない」と答えたそうです。

僕の生きがいは「神の愛」という話をあるキリスト教会でしました。興味のある方はどうぞ。

http://hajimac.qee.jp/140525_Romans_13_8-14.mp3
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by hajimac | 2014-06-18 17:38 | エッセイ

今日

僕は泣く

週末に先生が言った

「祈るとき、その人のことをじっと考える」

なにを思っているだろうか

なにを感じているだろうか

本当のところは僕には分からない

でも神がすべてを知っている

神はひとりでも滅びることを望まず

すべての人が神に立ち返ることを望んでいる(2ペテロ2:9)

イエスは言った(ルカ13:4、5)

「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか」

「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」

40の誕生日に facebook に書いた

「親愛なる友人たち」

「もしまだ神の愛、イエスの十字架での死によって現された神の愛を知らないのなら、どうか聖書を読んで見つけられますように」

「もしすでに神の愛、イエスの十字架での死によって現された神の愛を知っているのなら、その愛がどれだけ広く、長く、高く、深いのかがさらに理解されますように」

子どもの頃、いつか必ず大きな地震が来ると言われていた。

事実、何十年おき、何百年おきに地震が起き、津波が起き、何千人、何万人の人が亡くなってきた

いつか必ず僕が死ぬ事も、いつか必ず世界が終わる事も分かっている

いつこの世界から去っても良いように、準備ができているだろうか
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by hajimac | 2011-03-16 03:38 | エッセイ
読み返してみて前回の日記はあまりにも分かりにくかったので単刀直入に言葉にしてみると

 1.聖書は「強い」夫婦間を築くことを教えている。

 2.でもそれ以上に聖書はイエスを信じる人がイエスと強い関係を築くことを教えている。

 3.なぜならイエスとイエスを信じる人たちとの関係が本当の「結婚関係」であって、この世界の結婚関係はそれを象徴するものに過ぎないから。(エペソ5:31,32)

下は僕の主観ですが上を理解していると

 1.人は自分も含めて欠点のあるもの。結婚関係の相手が自分の一番になってしまうと必ずどこかで失望させられる。イエスはイエスに頼る人を決して失望させない。

 2.結婚関係が自分とイエスとの関係を象徴しているものであるなら、一層、この世界での結婚関係を良いものにしようと努力する動機になる。

 3.人はたとえ一人でもイエスと「結婚」することで創世記で神が定めた「二人で一体」の関係を満たすことができる。

という感じです。

それでも分かりにくいかも???
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by hajimac | 2009-05-14 12:42 | エッセイ
6.天国では結婚していない

 「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。

 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。

 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。

 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

 イエスは言われた。

 「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。

 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」

 マルコによる福音書12章18節から25節まで(新共同訳)

注目したいのは「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」ということば。

聖書の結婚観がどれだけ「強い」夫婦関係を教えているか見てきましたが、このことばは結婚関係がどんなに強く良いものであっても永遠のものではなく、この地上の世界だけの関係であることを示しています。

イエスによって罪を赦された人たちは天国で─夫婦のパートナーだけでなく─すべての人と愛し合い、互いに仕えるようになるのだと理解しています。

たとえこの地上でどんなに良い夫婦関係を築けたとしても...

逆を返せば、たとえこの地上の世界でどんなに良い夫婦関係が築けなかったとしても...

天国ではもはや人と結婚することはない。

 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
 エフェソの信徒への手紙5章31節と32節

なぜなら、この地上の結婚はどこまでいっても「過ぎ去っていくもの」にすぎず、永遠に続くのはイエスとイエスを信じる人たちの関係だからです。

ほぼ2年かかりましたが(笑)とりあえず「聖書の結婚観」シリーズはここまでです。
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by hajimac | 2009-05-13 04:21 | エッセイ
今年の目標、とりあえず続いています。あと11ヶ月!(笑)

やっとシリーズ更新、忘れていたわけでは決して無いのですが、時間が取れなかったのと語りにくい話題だったことで一年以上経ってしまいました。

 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、
 ご自身がそのからだの救い主であられるように、
 夫は妻のかしらであるからです。
 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。

 エペソ人への手紙5章22節から24節まで

夫には自己犠牲をもって妻を愛することが求められていますが

妻には夫に従うことが求められています。

この箇所が語りにくい理由に、まずそもそも夫と妻に求められていることが違うことが問題となるようです。

聖書は確かに男女平等、神の前に受ける特権に違いはありません。(ガラテヤ3:28)

ですが、男と女、すべてなにもかも同じなのかと言えば、そうではないようです。

男性と女性には求められることが違います。

すべて同じでなければ平等になれないという考え方では、男女のどんな違いも男女平等を損なうという結論が導かれますが

聖書は神が男と女に別々の役割を与え、しかし男も女も同等に神の前に価値あるものである、と教えます。

男女になにかしらの違いがある、という意見は現在は全く流行りませんが...

 夫の役割は妻を自分のからだとして愛すること。

 妻の役割は夫を自分のかしらとして信頼すること。

どちらも相手の欠点だけを見ていてはとても行う気になれない。

でも自分の役割を理解してそれを全うしようとするなら

自身をささげるように妻を愛するような夫なら信頼することもしやすいでしょうし

自身をゆだねるように夫に信頼するような妻なら愛することもしやすいでしょう。

聖書はそのような結婚観を教えています。

P.S.「夫が妻のかしらである」とは?「教会がキリストに従うように」とは?「すべてのことにおいて、夫に従う」とは?細かなところ、英語ですがこちらのページで語っています。
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by hajimac | 2009-02-12 05:02 | エッセイ
  夫たちよ。キリストが教会を愛し、
  教会のためにご自身をささげられたように、
  あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

  そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように
  愛さなければなりません。
  自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。

  エペソ人への手紙5章25節と28節

言ってみれば、友人に対してもイエスが愛されたように愛するようにと教えられているわけですが(ヨハネ13章34節)

聖書の結婚観における夫の妻への愛し方は

  イエスが教会のために自分のいのちさえ与えたほどに

  妻がもはや他人ではなく自分のからだそのものであるかのように

愛するようにと言われています。

それはこの世界でもっとも崇高な愛の形

そんな愛し方をどの夫がすることができるでしょうか?

ですが、すべてクリスチャンである夫はそのような愛し方を求められています。

自分のいのちを文字通り、妻のためにささげる、そんな状況は普通起こらないでしょう。

でも普段の生活で、妻の悲しみを自分の悲しみとし、妻の喜びを自分の喜びとするのなら─自分を愛するように妻を愛することを続けられたのなら

そのときが来たらきっと、妻のために自分のいのちをささげることができるのではないか、そのように期待します。

P.S. やっとシリーズ更新。Internet Explorer 7 になってからなんかエラーが出やすいです...
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by hajimac | 2008-01-24 11:07 | エッセイ
前回、声高に「なぜ姦淫は罪なのか?」などと語りましたが

それでは僕は姦淫をしない人なのかというと

そういうわけではありません。

イエスは言いました。

  「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
  しかし、わたしは言っておく。
  みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、
  既に心の中でその女を犯したのである。」

  マタイによる福音書5章27節と28節(新共同訳)

もし誰も見ていないのだとしたら...

もし誰にも分からないのだとしたら...

僕には実際に姦淫をしないでいることができていたであろうか、自信などというものはありません。

もし心で欲することがあったのなら、まだ肉体的に姦淫を犯していなかったとしても、僕は姦淫をすでに犯してしまった人と同様に神の前に有罪です。

姦淫を犯してしまった人を指差して「有罪だ」などと言っていられるものではないのです。

  イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、
  民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。

  そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、
  姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、
  真ん中に立たせ、イエスに言った。

  「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
  こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
  ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

  イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
  イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
  しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

  「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

  そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
  これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、
  立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
  イエスは、身を起こして言われた。

  「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
 
  女が、

  「主よ、だれも」

  と言うと、イエスは言われた。

  「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

  ヨハネによる福音書8章1節から11節まで(新共同訳)

ですが、聖書の素晴らしいところは、僕が有罪であっても、神は僕を受け入れてくださる、と教えていることです。

  人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
  ただキリスト・イエスによる購いの業を通して、
  神の恵みにより無償で義とされるのです。

  ローマの信徒への手紙3章23節と24節(新共同訳)

「キリスト・イエスによる購いの業」とはイエスが罪を犯してしまった人たちの代わりに十字架で神に罪の罰を受けたことです。

  キリストは罪を犯したことがなく、
  その口に何の偽りも見いだされませんでした。
  ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、
  正しくさばかれる方にお任せになりました。

  そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
  それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
  キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

  1ペテロの手紙2章22節から24節(新共同訳)

姦淫をしないでいることができたから、神に受け入れられるのではありません。

姦淫を犯してしまったのに、神がイエスの死を僕の罪の罰として認めてくださるので、神に受け入れられると言われています。
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by hajimac | 2007-10-28 22:54 | エッセイ

なぜ姦淫は罪なのか?

あちのすけさんの質問に答えるのに、エキサイトに「文字数が多すぎ!」と言われてしまいました ^_^;

というわけでこちらに書かせていただきました...

なぜ姦淫は罪なのでしょうか?

あちのすけさんが言われるとおり、姦淫は、夫婦互いが交わり一体となる努力を怠ること、という面からも良くないこと、と言えると思います。

結婚するときに、良いときも悪いときも富めるときも貧しいときも病めるときも健やかなときも死が二人を分かつまで、自分のパートナー「だけ」を愛することを誓うなら、姦淫はその誓い─契約─を破ることも意味するでしょう。

 あなたたちは、なぜかと問うている。
 それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、
 あなたが妻を裏切ったからだ。
 彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。
 主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。
 そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。
 あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。
 あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。
 ─マラキ書2章14節と15節

姦淫をされても平気、という特殊な人もいますが、普通は姦淫されると「裏切られた」と感じるでしょう?

姦淫はそのような苦痛を自分のパートナーに与えること、すなわち自分のパートナーを愛さない行為であるとも考えます。

でも結局のところ、神が「一人の男性と一人の女性が生涯愛し合うこと」を良いこととし、姦淫を悪いことと定めたので、姦淫は罪、というところに終着するしかないようにも思います。

なぜ神は人が自由にセックスを誰とでも楽しむことを良しとしなかったのか?

僕には分かりません。

でも僕の経験では、神が良しと定められたことが本当に良いことでそれ以外のやり方は一時的に自分に良いように思えても、長期的には結局良くなかったというように思えてなりません。

なんだか長々と書いてしまいましたが...

率直なご質問は大歓迎です♪
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by hajimac | 2007-10-12 22:44 | エッセイ

3.一体となる

# やっとシリーズ更新。で、18禁な話題です(笑)

セックスを楽しむなんて罪、と考えられることもありますが

たとえばアダムとエバが罪を犯す前からセックスがあって、神はそれをも含めて「極めて良い」とされました。

 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。
 見よ、それは極めて良かった。
 夕べがあり、朝があった。第六の日である。
 ─創世記1章31節(新共同訳)

 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
 ─創世記2章24節と25節(新共同訳)

旧約聖書には新婚のカップルが─特に男性が女性を─喜ばせるべきことが言われています。

 人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、
 一年間は自分の家のためにすべてを免除される。
 彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。
 ─申命記24章5節(新共同訳)

雅歌には結婚する男女の性的な喜びが語られています。(下はその極一部)

 花嫁よ、あなたの唇は蜜を滴らせ
 舌には蜂蜜と乳がひそむ。
 あなたの衣はレバノンの香り。
 ─雅歌4章11節(新共同訳)

新約聖書にもセックスを楽しみたければ結婚して夫婦の間で楽しむことが言われています。

 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、
 また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。
 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。
 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。
 同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、
 妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。
 ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、
 また一緒になるというなら話は別です。
 あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、
 サタンが誘惑しないともかぎらないからです。
 ─コリントの信徒への手紙一7章2節から5節まで(新共同訳)

なぜ神は夫婦でセックスを楽しめるようにしたのでしょうか?

第一にまず子どもが生まれるため、だと思われますが

その他に─それ以上に─「ふたり」であったものが「ひとり」となる過程を助けるためだと考えます。

この世界で二人の人間が一番近くなれるのが─少なくとも僕の経験では─セックスであるからです。

二人の体が交わり溶け合い結ばれ一体になる。

聖書は夫婦間のセックスに大変肯定的です。
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by hajimac | 2007-10-09 23:27 | エッセイ

2.父母を離れ

「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2章24節)

「血は水よりも濃い」ということわざ(?)が中国にはあるそうです。

血を分けた親子の絆の方が血のつながらない夫婦の関係より強い、という意味だそうです。

聖書の結婚観は「父母を離れ」と言っています。

親子の絆は子どもがいずれ自立して結婚するときにはある意味「切れる」べきもの。

逆に夫婦の関係はどちらかが死ぬまで一生続くものと言えます。

だから、今、自分と子どもとの関係構築のための努力はもちろんしますが、

どちらに優先順位があるのかといえば、僕は妻さまとの関係構築の方に尽力するよう意識します。

夫と妻の仲が悪くて親と子の関係も良くない、という話は聞きますが(そうでなくても親と子の良い関係を築かれている方々ももちろんいますが)

夫と妻の仲が良くて親と子の関係が良くない、という話は聞いたことがありません。

僕が子どもに何か一つ良いことをしてあげられるとしたら(神のことを伝えることのほかに)

それはきっと僕が妻さまと良い関係を築くことなのだと考えます。

p.s. 「離れ」と言われていますが、もちろん関係が全く切れてしまうわけではなくて、例えば高年の親の世話をすることも聖書は薦めています(1テモテ5:8)。
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by hajimac | 2007-08-08 04:20 | エッセイ